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2022.06.15インタビュー

【Pick up④ 特別会員 岡野竜馬先輩、特別会員 野村沙永先輩 インタビュー】

特別会員インタビュー2回目は、岡野竜馬先輩と野村沙永先輩にインタビューいたしました。

岡野先輩は、2001年広島青年会議所に入会後、2006年広島JC平和発信委員会委員長、2007年広島青年会議所副理事長を歴任され、同年に卒業されました。現在、岡重株式会社営業1部部長をされています。この度のインタビューでは、岡野先輩にとっての広島青年会議所とは何か、2006年実施の「広島国際平和会議2006」に共同参画した経緯・成功の秘話をお伺いしました。

 

どのようなお仕事をされていますか

岡重株式会社は、鉄鋼関係を扱う商社として、また工場として昭和11年に創業しました。戦後は、電気通信関係のインフラの仕事を柱に、電線を整備するためのパイプの開発やその付随する部品などを含めて電気会社に卸す仕事をしています。電線の仕事をしていた関係で、街中の電柱を地下に埋め込むための道路工事などをしています。また、意外に思われるかもしれませんが、弊社のパイプでブドウ・梨の果樹園の棚を作る仕事もしています。

 

 

 

岡野先輩にとっての「広島青年会議所」とはどんな存在ですか

岡野先輩

広島青年会議所は広島のまちをよくするための事業を行っています。その事業を具体的に実現するのは、各委員会です。その委員会は、事業のことを本気で話合う場でした。私は、様々な組織に加入してきましたが、事業のことを本気で話し合う組織は、後にも先にもありませんでした。委員会活動を通じて、本気でやるということがどういうことなのか感じることができました。

本気でやると言えば、とても印象に残っていることがあります。それは、私が委員長の時に行った「広島国際平和会議2006」の共同参画の本番直前に、野村室長が1週間くらい徹夜で事業の準備を行っていた際に、野村室長に「少し休んでください」と言いました。すると、「本気で命かけてやっているのに休めってどういうことか」と涙ながらに怒られました。野村室長の姿を見て、私も思わず泣いてしまいました。本気で頑張っている人に中途半端な慰労の言葉をかけることが、こんなにも失礼にあたることだということを初めて知りました。

野村先輩

あの時は、私も本気でしたから…。私が怒った翌日、岡野委員長は私の会社まで謝罪に来てくれて驚きました。事業直前の1週間は、私も岡野委員長も寝ていなかったし、当時の広島青年会議所の西井 副理事長も寝ていなかったと思います。みんな、それだけ本気だったということです。

 

青年会議所活動を通じて、得たものは何でしょうか。

岡野先輩

一つは同期の仲間です。未だに同期会や同期旅行を毎年行っています。一番自分を怒ってくれる存在が同期です。同期に言われると考えさせられます。人としてあるべき姿について、どうなのかと叱ってくれる組織は青年会議所だと思います。

野村先輩

自分たちの同期も仲が良いと思います。そこには必ず中心人物やいじられキャラ等、様々なキャラクターを持った人がいるからこそまとまりがあります。

 

 

2006年広島JC平和発信委員会として、「広島国際平和会議2006」へ共同参画を行った経過を改めて教えてください。

“平和、平和”と訴えることだけではない何かをしたいと考えていました。“祈る平和”ではなく“つくる平和”など行政やNGOからもいろいろなコンセプトが出た時代でした。そんななか、国際平和文化都市広島として祈るだけではない平和があると考え、その思いを委員会メンバーにぶつけたとき、広島だからしなければならないことに絞って考えようという議論が沸き起こりました。

そのようなとき、ダライ・ラマ法王が宮島弥山大本山大聖院の開創1200年記念事業で来られるから、なにかやらないかと声をかけていただいていました。そこから、どうせやるなら世界中のノーベル平和賞受賞者をみんな呼ぼうとなり、受賞者に広島青年会議所として手紙を出しました。しかし、なかなか返事が集まらなかったので、インドのダラムサラにダライ・ラマ法王をお訪ねし、法王の推薦状をいただいて帰って、再度受賞者に参加要請の文書を送ったことを覚えています。

 

「広島青年会議所の平和感」を市民に浸透させていくために検討を重ね、「もっと人間らしく、やさしくなりたい」というテーマに行きつくまでどのような議論をされたか教えてください。

広島が国際平和文化都市として、世界中に“具体的な平和貢献”を発信するために、この平和会議が根付いてくれたらと考えていました。例えば、対立する国の関係者同士でも広島になら集い会議をする、実際に紛争や災害が起きた場合に世界中が広島からの発信に注目する、そんな広島になることを構想しました。

そのようななか、ダライ・ラマ法王、デズモンド・ツツ大主教、ベティ・ウィリアムズ女史の3人が参加いただけると決まり、その3人が取り組まれてきたことの共通点が「寛容」というテーマで「人間らしく優しくなりたい」というコンセプトに決まりました。

 

事業で感じた達成感や苦労を教えてください。

野村室長と私の2人で、来訪される3人の方の関係資料を読んで、単純にこのような人に自分の人生で会えないと思いました。これぞ青年会議所だからできると思い、こんなすごい人に会えるなら会いたいという共通認識を私たちはもっていました。

しかし、本当に大変な事業でした。県警や外務省とも関わりを持つこととなりました。平和会議終了後に平和公園慰霊碑に献花することは警備上諦めていました。3人がいわば勝手に歩き出した予定外の出来事も発生しました。警備計画ができていなかったため、広島青年会議所の会員が自発的に群衆の中で盾となり、県警と共に警備をしてくれたことで実現しました。

 

周囲を巻き込む“秘訣”を教えてください。

岡野先輩

私が唯一褒めてもらえることはあきらめなかったことでしょうか。なかなか参加してくれる受賞者が決まらない中で”来てくれた人でできることをやる”“どういう形であれやる”と決めて、貫いたことが全てでした。しかし、このままではろくなものにならないから、青年会議所の為にやってやろうとみんなが動いてくれました。本当に当時は失敗したらどうするか、失敗する訳にはいかないというプレッシャーの中、OBの方々も含め広島JCが結束しました。事業終了後の例会挨拶で、当時の中村一朗理事長が発言された『薄氷を踏む想いだった』は当時のJC流行語大賞となりました。また、受賞者のアテンドなど調整を一手に引き受けてくれた文殊朱利仏教会、幟町教会、日本聖公広島復活教会、広島経済大学関係者、会議の内容や進行に助言しコーディネーターも務めてくれた広島市立大学関係者やNGO団体の方々、全体に渡って精神的支柱となってくださった村上和雄先生やその他様々な方の力添えと連携があってこの事業は成立したのです。

野村先輩

矢面に立つのは岡野委員長。矢面に立っている人間を見捨てるわけにいかないという周りの気持ちではないでしょうか。やると決まってからの団結力はすごかったと思います。

 

最後に現役会員に対して一言お願いいたします。

青年会議所の活動に取り組む中で、委員長になった時に何をしたい、という野望をもって取り組んでもらいたいです。自分がやりたいことはなんなのか。そこに向かってブレずに進むことで周りがついてきてくれるのだと思っています。

 

以上、インタビューでした。

 

岡野先輩からいただいた『広島国際平和会議二〇〇六公式議事録「変化はあなたの心からはじまります」』を拝見し、事業が構築されるまでの流れから感情まで一部始終が記載されていました。その中でも、野村室長の「私たちの故郷、広島から平和のメッセージを発信するためのお手伝いをすること、こんなことすらできないで、街づくりなどできない。広島に投げられたボールを広島の若者たちが返せないようでは、広島の未来はない」という言葉が胸に刺さりました。まちづくりを掲げている団体として広島のまちにインパクトを与えられるよう精進して参ります。

 

【プロフィール】

岡野 竜馬先輩

岡重株式会社 営業1部 部長

2001年に広島青年会議所に入会され、2006年に広島JC平和発信委員会委員長、2007年に副理事長を歴任され、ご卒業されました。

野村 沙永先輩

社会福祉法人燈心会三滝苑 施設長

1999年に広島青年会議所に入会され、2005年に平和産業振興委員会委員長、2006年に室長を歴任され、卒業されました。