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2022.10.20インタビュー

【Pick up⑧ 特別会員 松田哲也先輩 インタビュー】

 

 

 

経歴

 

株式会社広島マツダ 代表取締役会長兼CEO 松田哲也先輩

2001年 広島青年会議所 入会

2006年 広島祭興委員会 委員長

2007年 副理事長

2008年 監事

2009年 理事長

2010年 直前理事長 卒業

 

 

 

それではさっそく、松田哲也先輩の仕事について教えてください

株式会社広島マツダで代表取締役会長兼CEOをしています。広島マツダは、マツダの自動車ディーラーの運営を主として、グループの傘下に約30社が入っており、多角化経営をしています。中には「おりづるタワー」の運営やハワイでの「寿司屋」も展開しています。近年ではベトナムに自動車の整備士学校を設立しました。

 

 

 

 

 

様々な事業を展開されていますが、将来に向けて期待している事業はありますか?

ベトナムの自動車整備士学校事業です。この事業は自分の人生における最後の社会貢献だと思っています。自動車業を見ると、日本は人口減少に加え、自動車好きの若者も減少しています。人口の絶対数が少ない上に、なり手も少ない状況です。

そこで、今後モータリゼーション(自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象)が盛んになっていく国の子たちに学校を作り、無料で教えるのはどうかと考えました。午前中は日本語、午後は整備のことを教えて向こうで自動車整備士として仕上げるスキームを展開します。そして、ベトナムの若者を日本にきてもらい、各企業に派遣したいと考えています。将来的には、後継者がいない整備会社の後継者になれるくらいの人物の輩出までできるのが理想です。需要も有り、様々な可能性を秘めていると思います。ベトナムという国も大好きなので、ベトナムと日本の架け橋になりたいですね。

 

 

 

 

 

新型コロナウイルス感染症など世界規模で様々な問題が起こっている中で、なぜ、歩みを止めることなく行動を起こすことができたのでしょうか

コロナだからって立ち止まるわけにはいかない、その気持ちが大きかったです。また、感染してしまったことをマイナスに捉えるのではなく、寧ろコロナに対して抗体を持つことができ、再びコロナに罹患する危険性が減る。逆転の発想で、コロナに感染したことをポジティブに捉え行動に幅ができたと考えました。人と同じことをやっていてもしょうがない。みんながコロナで立ち止まっているときに自分は先に動くことができる、ならばこの機会に何ができるのか真剣に考え行動に起こしました。さらに言えば、当時の新型コロナウイルスに感染すると犯人捜しのような風潮がすごく嫌でした。菌は見えないし、かかりたくて感染しているわけではないですから。隠すことが寧ろかっこ悪いと思ったので、自分が感染したときに敢えて公表しました。

また、青年会議所活動で培った様々な経験も大きいです。青年会議所は単年度主義で1年間という区切りがあり、毎年自分の役割が変わります。だからこそ、熱を入れて頑張ることができるのです。私は、会社の経営についても区切りというものを意識しています。自分の中で目的を定めることで、そのゴールに向けて歩みを止めることなく必死に走り切ることを大切にしていますね。

 

 

 

 

 

 

 

松田哲也先輩にとって、広島青年会議所とはどんな存在で、活動を通じて得たものは何でしょうか

私の1日の考え方や信条、ライフスタイルなど生活のベースになっているのが広島青年会議所ですね。。

今でも過密スケジュールの中で日々を過ごしていますが、この年になっても健康でいられるというのは青年会議所活動で培った経験があったからだと思います。また、努力は報われるということも教えていただきました。全てに目的があり、目的を共有して行動することで大きなうねりにつながることを、様々な体験を通じて学べました。

 

 

 

 

 

在籍した際にいろいろな活動をされたと思いますが一番の思い出は何でしょうか

今に思えば毎年一生懸命やっていたので楽しいことだらけでした。思い出として挙げられるのは、入会2年目の幹事という役職につき、泣きながら夜中に一人で大量に資料のコピーをしていたときと、副委員長という役職の時に夜中3時、4時まで一人で事業のことを考えていたときです。

青年会議所活動を一生懸命頑張っても上手くいかないなどの不条理さを経験したことが、今の自分の強さになっていると思います。また、広島青年会議所の活動が単年度制(1年ごとに役職など、活動内容が会員全員変わる制度)で、雑用から運営管理など様々な役割を経験させてもらえたことで、自分の会社の部下や社員に対して、その人の立場になり、寄り添って接することができるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2006年に広島祭興委員会の委員長の際に実施した“フラワーナイトフェスティバル”について改めて教えてください

フラワーフェスティバルの夜に音と光の演出で平和の祭典を華やかに彩る事業を行いました。具体的には原爆ドームのライトアップや平和公園内をキャンドルで埋め尽くし、街灯を着色して夜神楽公演を行い、夜の賑わいを創出しました。「夜のフラワーフェスティバル、夜の祭りを実施せよ」というのがミッションでした。ただ、最初は「男の裸祭り」と題して、ふんどし姿の男が綱引きしたり、相撲したりするというアイディアで、フラワーフェスティバルが「平和の祭典」ということを忘れていて、とにかく夜の祭り、夜の広島を賑やかにして滞留してもらうためにどのような催しが良いか考えていました。「男の裸祭り」という構想から話が始まり、そこから様々な話し合いを重ね、最終的には先ほど述べた事業内容に落ち着きました。結果多くの方に喜んでいただき、盛り上がりも見せ、大成功と言ってもらうことできました。

 

 

 

 

夜の賑わいを広げる活動に対して企画立案、騒音や近隣住民対策、交通規制、治安維持など様々なハードルがあったと思いますが、どのように事業構築できたのでしょうか。

初めは本当に「男の裸祭り」の企画書を作成して、警察、フラワーフェスティバル事務局に持っていきました。全く相手にしてもらえなかったんですけど、めげずに毎日通い詰めていると、段々と仲良くなることでき、皆さんが協力してやろうとアイディアを出してくれるようになりました。夜神楽とかはフラワーフェスティバル事務局のアイディアで、実際に向こうが段取りしてくれました。最終的に広島青年会議所がまとめて大成功みたいになっていますが、若者ががむしゃらに妄想を膨らませたところから始まり、ゴールに向けて走っている最中で色んな方が手を差し伸べてくれ、結果的に成功に導くことができたように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

どのようにすれば、広島の街づくりのために広島青年会議所が役立てるのか、どのようにかかわるべきなのか、もし、松田哲也先輩のお考えがあれば教えてください

広島青年会議所は青年経済人の集まりです。まとまりのある形式的な事業は若者がやることではないと感じています。がむしゃらに動ける若者達は、もっと街の為に何ができるか、こんなことができないかという妄想からはじめてもいいような気がします。私たち広島青年会議所は事業を残すことよりも記憶に残る、波紋を起こすことが大切です。石を川に投げたら波紋が起きるのと同じで、投げる作業だけ一生懸命やればどこかでうねりになる大きな事業につながるのではないかと思います。最終的には小さい石しか投げられなくても、最初はでっかい石を投げたいと考え、ゴールに向けてがむしゃらに走ってもらいたいですね。